大空の夢〜サントス−デュモン〜

少年時代〜人間は飛ぶ!〜

 1873年、父の41歳の誕生日に生まれたアルベルト・サントス-デュモン。 末っ子として自由に育てられた彼は、ジュール・ベルヌの小説をよみふけるうちに『空の大海原の探検』に強い憧れを持ち始めました。夢見がちな少年でしたが、決してただ夢を見るだけではなく、思ったことはすぐ実行する行動力も持ち合わせていたようです。絹紙でいくつも小型の熱気球をつくって編隊を組んで飛ばしたり、ゴムの弾性で動く麦わら飛行機をつくったりしていました。12歳になる頃には父の農場の全長96キロの施設鉄道のボールドウィン機関車を運転し、また幼いころから加工作業場に足しげくかよい、機器の操作・修理を習得していたそうです。

  その当時の子供たちがよくやっていた遊びに「鳩は飛ぶ」というゲームがありました。 リーダーが鳩やカラス、蜜蜂などの実際に飛ぶものを飛ぶと言った場合は指を立て、犬や狐など飛ばないものを言った場合に指を立てると、罰金を払わされるというゲームだそうです。 「鳩は飛ぶ」「カラスは飛ぶ」当然、全員指を立てる。「犬は飛ぶ」「狐は飛ぶ」誰も指を立てません。 「人間は飛ぶ!!」このときアルベルト少年は後年の彼の著書のなかで『わたしはいつも、絶対的な確信の印として指を立てた』そして罰金の支払いは頑として拒んだ、と書いています。
  アルベルト18歳の年、落馬により重症をおった父親は治療のため、アルベルトをつれてパリに渡りましたが、治療の甲斐なく世を去ります。莫大な財産をうけとったアルベルト・サントス-デュモンは1人パリにとどまりました。

空中の散歩人への道〜飛行船実験〜

 当時の気球はモンゴルフィエ兄弟が1783年に飛行実験に成功して以来、ほとんど進歩おらず、まだ操縦のできるものは開発されてませんでした。風まかせに飛ぶ気球は、それはそれでのんびりした風情のものかもしれませんが、空を征服しようとしていたサントス-デュモンにとって、空は「散歩」ができる場所でなければならなかったようで、彼はすぐさま「操縦できる気球」すなわち飛行船の開発に着手します。莫大な財産を持ち、いつも小粋な身なりの一見プレイボーイ風の伊達男、高級店に出入りし趣味は自動車。質実剛健とは程遠いと言っても良いこの男の奇跡への挑戦が始まりました。 個人教師を雇って科学を学び、自動車の動力を始め飛行に役立ちそうなあらゆる物を研究し(そして数多くの失敗も経験)、サントス-デュモンはある材料に目をつけます。

 それは日本製のシルクと竹でした。それまでの気球が200キロを越える重さがあったものが普通だったのに比べ、サントス-デュモンの気球は旅行カバンでもちあるけたそうです。最初の気球は『小ブラジル号』と名付けられました。専門家の助言はほとんど無視していたようで、作業員にも「私の指示にしたがうこと、実際につかえるかどうかなどは気にかけるな」と言ったそうです。人間は飛ぶことが出来るという絶対的な確信があったのでしょう。

 このころ、気球の中で食事をする感覚を身につけるため食卓と椅子をワイヤーで天井からぶら下げて、天井が落ちると今度は高さが1.8メートルの食卓をわざわざ作ってそこで食事をしていました。 「いまだ航行されざる大海へ!」のモットーが書かれた横断幕をたなびかせて実験を重ねる様子は、パリッ子達の目を引き、シャンゼリゼ通りやブローニュの森、エッフェル塔のまわりでの飛行実験はいつも大変は人だかりだったようです。

 サントス-デュモンは「猫の敏捷性、登山家の確かな足どり、技師の手、異常なまでの気ぜわしさ、そして揺るぎ無い確信の持ち主」と言われていました。 プティ・サントスの愛称で親しまれ、尊敬されていた彼は、あるジャーナリストによると「彼には妙に人の心を引き付けるところがあった」らしく少々の事は周囲から大目にみられていたようです。 パリ市内の家々の上に誘導策をたらしたり、森に墜落しそうになった時は、たまたまその場に居合わせた子供に誘導策を握らせて走ってもらいなんとか安全に降下したり、トロカデロホテルの屋根から宙吊りになって救助されたりしていたようです。 高い木に引っかかって修理中には、ブラジル皇帝ペドロ二世の娘のウー伯爵夫人から昼食が届けられたりもしたそうです。
このウー伯爵夫人からは、これ以上の墜落を防ぐお守りとしてゴールドのブレスレットももらってます。

 サントス-デュモン襟と呼ばれた白くて高い襟やパナマ帽子など、時代の最先端をいっていた彼のファッションはパリで大流行。当時しきりに開かれていた舞踏会などでも人気者でした。

空の征服者〜人間は飛ぶ、その通り!〜

  アンリ・ドゥーチ・ド・ラ・ムート男爵、石油王にして航空クラブの会長。彼はエッフェル塔の周囲を半時間飛んだ人物に対して、賞金10万フラン授与すると発表しました。何人かが命を落とし、彼自身3度目の挑戦であった1901年10月19日。パリ中が注目する中、見事半時間の飛行に成功したサントス-デュモンは名誉あるドゥーチ賞と賞金10万フランを受け取り、一躍国際的な有名人になりました。 世界中から叙勲の申し入れや招待が殺到したそうです。
英国では航空協会が設立され、最初の主賓として招かれました。

 中でもサントス-デュモンを最も喜ばせたのは、昔の遊び仲間から届いた手紙でした。 「人間は飛ぶ、その通り。・・・(あのゲームは)今では人間は飛ぶ、と言って指を立てなかった者は罰金を払わなければならないのさ」

  その後、モナコ国王の申し出を受け、しばらくモナコに滞在。この時、ナポレオンの未亡人も彼に合いに来たといわれています。また、ブラジルに凱旋、英雄として迎えられます。(サントス-デュモンの部屋の下では、彼のために作曲されたセレナーデが毎晩歌われたそうです)フランスでは革命記念日に飛行船の上から礼砲を鳴らし、フランス大統領を仰天させ、またレジオン・ドヌール勲章騎士章に叙せられ、アメリカではトーマス・エジソンにも会いました。その後も多くの叙勲を受け、彼の功績を称える記念碑がいくつも建てられ、後年、ブラジルのリオデジャネイロの空港は、彼の名をとって「サントス-デュモン空港」と名付けられました。

 

  すでにサントス-デュモンにとって、飛行船はきわめて安全な乗り物になっていました。時には飛行船からカフェのテラスに降り、食前酒を一気に飲み干すと、詫びを言ってふたたび飛び去ったりもしていたようです。人を驚かせて喜ぶ悪い癖があったようですが、いつもは礼儀正しく、凱旋門の下をくぐりぬけたい誘惑にかられた時もなんとか思いとどまったそうです。 もはや誰一人知らない人はいないであろう有名人になったサントス-デュモンですが、彼はまだ満足はしていなかったようです。
サントス-デュモンの飛行機への挑戦が始まります。

サントス-デュモン

 

新たなる挑戦〜飛行機〜

 当時の飛行機への評価「人口飛行のあらゆる試みは、生命にとって危険であるばかりか、工学的観点からも失敗する運命にある」「飛行機械が作動するだなんて信じること自体、完全にナンセンス」といったものでした。多くに命知らずが挑戦し、そして失敗し、時には命を落とす者もいた飛行機。さすがのサントス-デュモンも失敗の連続だったようです。
しかし次第に自信を強めて、14−ビス(14号機)を開発した時、彼は重航空機で初めて100メートル飛んだ人に与えられるアルクデアコン賞に応募しました。

  1906年10月22日午前8時。審判員と審査員、報道関係者、そして1000人を超える野次馬がブローニュの森に集まりました。夜明けの静穏こそ飛行にふさわしい、というのがサントス-デュモンの持論だったようで、時間には少し不満だったようですが、「(決闘者ならその時間によびだすかもしれないが)飛行船の船長は違う!」と言って彼は指定された時間をうけいれました。
  そして準備が整った午後4時、飛行開始。大群衆が固唾を飲んで見守る中、地上2〜3メートルの高さで約60メートルの飛行に成功。ヨーロッパにおける飛行機の初飛行の瞬間でした。
目標の100メートルには届きませんでしたが、それでも群集は狂喜しました。もとよりそれで満足するサントス-デュモンではありません。翌月の11月14日に再び100メートル以上の飛行に挑戦します。
ところがその当日、審判員(と大群衆)を集めたサントス-デュモンの前に、見覚えのない巨大な複葉機が姿をあらわしました。ルイ・ブレリオという男が挑戦してきたのです。

栄光と友情〜サントスウォッチ〜

  サントス-デュモンにはいくつものこだわりがあり、賞についても「授与される金額よりも、飛行術に払われる敬意に価値がある」として、賞金はほとんど手元におかず、作業員達に分け与えていました。また発明についても一切特許はとらず、研究成果はすべて公表し、それによる報酬も受け取りませんでした。空を征服し、世界の距離を縮める事、だれもが安全に空の旅を楽しめるようになる事。それこそがサントス-デュモンに夢だったのでしょう。最初に飛ぶ人間がだれであるかは、たいした問題ではなかったのかもしれません。

 

 「貴殿(ムッシュー)からお先に」サントス-デュモンはルイ・ブレリオに先を譲りました。しかしルイ・ブレリオの飛行機は離陸することなく大破。 続いてサントス-デュモンが飛行開始。そして見事成功。距離220メートル、飛行時間21秒2。
群集は狂喜乱舞。新聞の見だしは飛行機一色。そして、それをなしとげたのは、またしてもサントス-デュモンだったのです。

 

 空を飛び始めたころのサントス-デュモンには、一つの悩みがありました。飛行船にせよ飛行機にせよそうですが、当時は操縦が難しく、懐中時計を出して時間を見る暇が無かったようです。事実、エッフェル塔の周囲を飛行船で飛んでドゥーチ賞を獲得した時も、着陸するなり「私は成功したのか?」とまわりの人に聞いたそうです。それを聞いたサントス-デュモンの親友、ルイ・カルチェは両手がふさがっていても時間が確かめられる時計、紳士用腕時計の開発を思いつきます。
  腕時計は自体はそれ以前にもありましたが、女性用のものか軍隊用の実用一点張りのものでした。カルチェが紳士のおしゃれ心を満足させる世界初の紳士用腕時計、サントス・ウォッチを開発したことにより、それまで頑として懐中時計を手放さなかった男性達も腕時計をするようになりました。当時大ベストセラーとなったサントス・ウォッチは、1978年にサントス・スポーツの名でふたたび売り出され、ベストセラーになりました。

晩年〜平和への祈り〜

 サントス-デュモンは36歳のとき、多発性硬化症を発病します。疲労感や神経過敏、めまいなどの症状が彼を悩ませました。飛行活動を休止し療養生活がはじまりましたが、その後もパン・アメリカン航空財団の初代総裁を勤めたり、大西洋無着陸横断飛行に成功したリンドバークの祝賀晩餐会の主宰(病気のため辞退)を頼まれたりして、多くの人達の尊敬を集めてました。
 しかし、飛行技術は彼の予想した方向には進みませんでした。戦争の世紀とも呼ばれる20世紀。戦場では飛行機や飛行船から爆弾が投下され、飛行機械は強力な殺人兵器と化していました。その事に心を痛めていたサントス-デュモンは、次第に爆弾投下の責任は自分にあると思い込み、自分を責め、情緒不安定や衰弱などの症状が進んでいきました。国際連盟に、航空戦の禁止を嘆願し、全く無視されたのもこの頃です。

 この頃、ブラジル政府は国民的英雄のサントス-デュモンを著述家アカデミーに選出することを計画。歓迎委員会が組織され、療養中のサントス-デュモンを招待します。サントス-デュモンの乗った船が港に入ると、サントス-デュモン号と命名された飛行機が歓迎の宣言をつけたパラシュートを落とし、国を上げてこの英雄の凱旋を歓迎・・・するはずでした。 しかし、サントス-デュモン号は空中で爆発してしまいます。乗員、乗客は全員死亡。この大事故はサントス-デュモンの目の前でおこりました。遺体の引き上げを手伝うと言い張り、全員の葬儀に出席したサントス-デュモンはその後、自宅に引きこもってしまいます。病状はますます悪化していきました。その後、心やさしい甥のジョージの介護もあって一時は持ちなおしたのですが、ついにサントス-デュモンの人生にとって最悪の事態がおこります。

ブラジル内戦の勃発。ここでも飛行機は大活躍をします。愛する祖国の人々が、彼の生み出した技術を使って殺し合いをしている・・・サントス-デュモンは話し合いによる平和的解決を嘆願しますが、今度も無視されてしまいました。
「わたしごときのために、いくつの命が犠牲になったことか」
1932年7月23日、絶望に打ちひしがれた彼はネクタイで首を吊り、自ら命を絶ちました。
葬儀は国葬がいとなまれ、そのため内戦は2日間停止されたそうです。

大空の夢

 空飛ぶ男サントス−デュモンの著者、ナンシー・ウィンターズ(忠平美幸訳)は、こう述べています。「彼の重航空機による飛行が厳密に世界初のものであったかどうかは、ある意味でお門違いの疑問だ」

サントス-デュモンの目標は空を飛ぶことであり、飛行船・飛行機を研究し、ひたすら空を目指しました。
子供の頃、夢中になったジュール・ベルヌの小説の世界を実現する事。それが大人になってからもサントス-デュモン見つづけた夢だったのでしょうか。

 

夢・遊び心・平和への祈り。
サントス-デュモンの精神は、今こそ見なおされるべき時代ではないでしょうか。

 

参考文献:ナンシー・ウィンターズ著忠平美幸訳『空飛ぶ男サントス−デュモン』草思社刊
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